棕櫚箒製作舎と箒について

しゅろほうきせいさくしゃ と ほうきについて
棕櫚箒製作舎と箒について


*お詫び*現在、2014〜2023年に予約再開連絡を申込みいただいたお客様から順番に受注製作を承っています。申込のないお客様は受注製作注文いただけません(この度の優先予約方法は一斉予約ではなく、事前お問合せ順の受付です)。当店の棕櫚箒はこのホームページからの直売(受注製作)のみで、他での販売や卸売はしていません。→予約なしでご注文いただける、在庫のある棕櫚箒の販売をはじめました。「在庫のある棕櫚箒/商品一覧」ページはこちら(各少数本・限定)。

【引き続き通常受注一時休止中・通常営業再開時期について】
【2016年優先予約開始について(ご予約は受付順で、専用パスワードが必要です)】
 

1.棕櫚箒製作舎(しゅろほうきせいさくしゃ)とは / 箒職人 プロフィール
2.現在使用している棕櫚原料の産地などについて
3.昔から作られてきた上質な国産棕櫚箒の品質が基準です
4.原材料が国産棕櫚から輸入棕櫚に変わった流れ
5.製作している棕櫚箒の形や意匠のルーツ、野上谷棕櫚箒について
6.番外編:鬼毛箒のここを見ると製造元が分かります 

 

1.棕櫚箒製作舎(しゅろほうきせいさくしゃ)とは / 棕櫚箒職人=箒師 プロフィール

棕櫚箒製作舎工房棕櫚箒(しゅろほうき)に興味をもってくださりありがとうございます。
こちらは箒職人がご注文を受けてから作る「受注製作・予約制」の棕櫚箒店です。このような形態は昔は「お誂え(おあつらえ)・誂え物の棕櫚箒」とよばれていました。
その特性を活かして棕櫚箒の特注や修理対応も承っています。

製作しているのは伝統的な棕櫚箒(和歌山県郷土伝統工芸品指定)。
和歌山県紀美野町周辺(古称:野上谷/のかみだに)で少なくとも江戸時代後期から作られ続けてきた棕櫚箒の様式や製法を受け継ぎ製作しています。

といっても、箒職人一人だけの小さな工房です。高野山麓の民家をお借りして、離れの一室を箒工房としています。

全品・全行程を一人だけでおこなっており、伝統技法による手仕事のため、1本の箒を仕上げるのにはとても時間がかかります。
箒の種類によっては1本作るのに数日間かかりきりになります。
通常のお店のような迅速な対応はできません。

棕櫚箒作りは、和歌山県の名匠だった棕櫚箒職人の桑添勇雄さんの元で習得。
2006年から2011年まで丸5年間、弟子として大小合わせて1万本以上製作し、その後独立を許され翌2012年に同町内で棕櫚箒製作舎を開きました。
2006年に見習いから棕櫚箒作りをはじめて、お陰様で2023年9月で17年目になりました。
棕櫚箒製作舎の工房風景

■棕櫚箒製作舎 棕櫚箒職人プロフィール

棕櫚箒職人 西尾 香織
職人紹介-棕櫚箒製作舎1976年 広島市生まれ、広島市育ち
広島市立大学芸術学部デザイン工芸学科卒後、印刷関係のデザイン事務所に就職。
2002年 和歌山県の風土に魅せられ転居、印刷関係の仕事に就く。
この時期、桑添勇雄さんの棕櫚箒を郷土資料の本で知り、頭から離れなくなる。
2006年9月 桑添勇雄さんに弟子入りを許され、桑添勇雄商店で見習い職人として働きはじめる。
丸5年の修行期間に、大小合わせて1万本以上の棕櫚箒製作を経験。
2012年 師の許しを得て棕櫚箒職人として独立。棕櫚箒製作舎をはじめる。
住宅設計を生業とする夫と共に、紀美野町の山あいの民家をお借りし、農的暮らしをはじめた。
 


【動画のご案内】棕櫚箒の製作風景・工房の様子は下記リンク先から動画でもご覧いただけます。
PRO-DITIONAL NIPPON(SONY)/和歌山県 棕櫚箒[映像] PRO-DITIONAL NIPPON(プロディショナルニッポン)/ SONY
[21/47] 和歌山県 棕櫚箒 / 取材・撮影・編集:溝井誠 氏(2018.5.18)


ものづくり和歌山ウェブサイト/棕櫚箒[映像] 和歌山県のものづくり企業・伝統産業を紹介するウェブサイト「ものづくり和歌山」/ 和歌山県
和歌山の伝統工芸品「棕櫚箒」/ (2021.5.13)
(日本語・英語・中国語に対応)
 

【棕櫚箒職人を志した理由や経緯】
■師匠・桑添勇雄さんの作る棕櫚箒と、師匠への憧れ
■調べれば調べるほど棕櫚箒という和箒の奥深さ・魅力を知った(長い歴史、今も家庭だけでなく神社・仏閣など神聖な場を掃き清めるのに使われており日本文化に深く関わりがある箒、自然素材でありながら数十年といわれる耐久性があり美しく掃きやすいなど高い性能、等)
→弟子入り前後・修業や、伝統工芸としての棕櫚箒について、後にブログに書き留めました。(ブログ箒師のしごと/棕櫚箒-取材)

弟子入り当時、師匠は79歳でそれまで一人も後継者がいませんでした。師匠は名人といわれていましたが、同時に「最後の棕櫚箒職人」ともいわれていました。一刻も早く誰かが技術を継承しないと(継承出来なければ)、日本人が数百年かけて高めてきた棕櫚箒作りの技術が完全に失われ、二度と同様の高い品質の箒が作れなくなってしまう、また、棕櫚箒は家庭でも使われますが古くから神社・仏閣など祈りの場を掃き清める箒として使われており、その箒がなくなってしまうのはどうしてもいけないと思いました。

いまに残る日本の多様な伝統産業の多くは高齢の職人が支えてきました。いつもあたりまえにあると思っていた物が、いざ必要になって探した時にはもう手に入らないか、希少すぎて入手困難という事が増えているという実感もありました。
技術は一度途絶えてしまうと完全に元通りに復活させるのは困難です。完成した箒の実物が残っていれば途絶えた後でも復元は可能だという考えもありますが、数点の複製品を作ることが可能だという話と、生の技術が誰かに直接継承されるのとでは内実や将来性がまったく異なります。特に習得が難しいといわれる物ほど、表面上・見た目だけを真似た物と、生きた技術・工程を経て出来た物では違いが出てきます。

歴史ある棕櫚箒作りの技術は地域の大切な財産であり、地元の人が継承するのが理想だという思いが私にはあり、他県出身で何のゆかりもない自分が声を上げるのはどうかとか、もし挑戦したところではたして自分に習得出来るのか、箒作りの仕事で食べていけるかどうかも分からない不安と、それまでの仕事も好きで何年もお世話になった方々に申し訳ない気持ちもあり、師匠の棕櫚箒に心惹かれながら4年余り悩みました。やがて仕事で体調を崩し改めて自分と向き合った結果、後悔のないように挑戦したい、と気持ちの整理がつきました。

一般的に職人は10年修業してやっと一人前といわれますので、そのときの師匠79歳と自分の29歳という年齢を考えますと、師匠は現役とはいえ高齢で私も職人になるには年を取りすぎており、技術の継承はギリギリかもう間に合わないかもしれないけど、他に誰も継承しておらず一刻も猶予がないので、もう出来る限りやるしかない、もしも弟子入りを許されるなら一生真剣に取り組む覚悟をして門を叩きました。師匠からは「技術の習得に最低5年間。でも何十年やってもだめな場合もある」と言われ、必死に取り組んできました。丸5年間の修業を経て独立を許されました。今では師匠の息子さんも職人となり後を継いでおられます。


2.現在使用している棕櫚原料の産地などについて

棕櫚箒は「伝統工芸品指定」とはいっても、
当店の棕櫚箒に使用している棕櫚原料は、師匠の代からすべて中国からの輸入棕櫚材です。
ただし厳選を重ねた、ほんの一握りだけの上質な輸入棕櫚(上質な棕櫚素材=産地を問わず、私はそれを目の前にすると心躍る、といいますか、テンションが上がって創作意欲がわく極上の棕櫚材です)を使用しています。原料選別は箒を作るのと同じくらい重要な作業です。
原料品質の判断基準は「昔からの上質な国産棕櫚箒」で、師匠・桑添勇雄さんの原料選別基準が元になっています。
本当に残念な事ですが、特に棕櫚箒作りに必要な最上質の棕櫚皮に関しては、
国内ではもう50年余りも入手不可能になっているのが現実です。
私は弟子入りするまでその事実をまったく知らず、すでに自分が生まれる10年余り前には良質な国産棕櫚が入手できなくなっていたと知り大変なショックを受けました。
(黒竹やヒノキは国産、その他の素材も入手可能なものはすべて日本製。)

 

3.昔から作られてきた上質な国産棕櫚箒の品質が基準です

棕櫚箒製作舎の棕櫚箒色々天然素材である棕櫚皮の品質は元々ピンからキリまであり、かつて国産棕櫚が豊富にあった時代でも棕櫚箒に使える棕櫚は全体量の数割程という最上質のものしかなく、大半の国産棕櫚は箒の原料には使えず、繊維に加工して棕櫚ロープや棕櫚束子に加工されていましたから、「棕櫚箒の原料として」という前提の話に限りますと単純に「国産棕櫚はすべて上質で、中国産原料は品質が悪い」とはいえません。

師匠の原料選別のやり方や言っていたことを思い返しますと、判断基準として「その棕櫚材を使ってこれから作る箒が、昔からの上質な棕櫚箒の品質と比較して良いかどうか、恥ずかしくないものかどうか」が前提になっていたと思います。

昔の国産棕櫚や国産棕櫚箒の品質を良く知る師匠が「これはいい」と選び出す輸入棕櫚材や、国産・中国産問わず「これはだめ」といって決して使わなかった棕櫚材の違いを、5年間ではありますがほとんど毎日間近で見て、時には一緒に選別作業をする中で学びました。
また、わずかな本数ですが、残っていた上質な国産棕櫚原料を使った箒作りも経験させてもらいました。
昔の上質な国産棕櫚は確かに素晴らしい品質で、今も憧れる気持ちはあるのですが、師匠から学んだことは、棕櫚が国産か中国産かというよりも、いま入手できる原料を使って最善を尽くすこと、しかも箒の品質は決して落とさず、出来上がった箒が昔からの上質な国産棕櫚箒の品質と同等か、それ以上を目指す、ということです。


 

4.原材料が国産棕櫚から輸入棕櫚に変わった流れ

かつての棕櫚山の名残の老木が点在画像こちら和歌山県紀美野町周辺(古称:野上谷)は、昭和まで棕櫚皮と棕櫚製品の全国一の産地として知られていました。
残念ながら和歌山県の棕櫚栽培は昭和40年前後には衰退し(需要の減少のため)、大半の棕櫚林は伐採され杉やヒノキの植林に変わりました。
現在この地に残っている棕櫚木は当時の名残で、老木や自生した木を見ることができます。

特に棕櫚箒作りに必要な最上質の棕櫚皮に関しては、国内ではもう50年余りも入手不可能になっています。
史料によれば、当地での棕櫚原料の輸入は明治時代からすでに始まっていました。
(そのいきさつには日本の戦争が関わっていたのですが、棕櫚箒の話とは別に語られるべきことと思いますので、棕櫚産業の発展と明治から昭和の戦争についての話はまた改めてご紹介したいと思います。)
私の師匠の場合は、国産棕櫚の良品が入手不可能となった昭和40年代頃から、中国からの輸入棕櫚を厳選して原料に使うようになり、その後もわずかに入荷する国産棕櫚もありましたが、箒を作れるような上質な国産棕櫚はなかったので使用することが出来ず、今に至ります。


 

5.製作している棕櫚箒の形や意匠のルーツ、野上谷棕櫚箒について

桑添勇雄さんの本鬼毛11玉長柄箒上質な誂え物を得意とした師匠・桑添勇雄さんが50年以上作っていた伝統的な棕櫚箒のルーツである「和歌山県野上谷における棕櫚箒作り」については、生産がはじまった時代ははっきり伝わっていないのですが、少なくとも江戸時代後期には、師匠が開いた桑添勇雄商店のある紀美野町東部あたりですでに生産していたといわれています。
和歌山県の棕櫚皮の産地としての歴史は室町時代にまで遡るといわれています。江戸時代の史料にも棕櫚皮の出荷の記述がみられます。

色々と調べているところですが、生活用品である箒は歴史的史料が乏しいと感じています。
日本全体でみると棕櫚箒自体の歴史は古く、江戸時代の絵画にも一般的な箒として描かれています(→江戸時代の絵に描かれている棕櫚箒についてはブログでご紹介していきます)。

野上谷で製作されてきた棕櫚箒の型自体は、都だった京都を中心に続いてきた関西で一般的な箒の形・様式に該当します。元々、棕櫚箒は京都で生まれ完成されたものと考えられており、やがてその技術が主に西日本各地に広まり各地で発展したといわれています。
いま野上谷に伝わっている棕櫚箒の型を厳密に細かく見ていくと、箒の玉(束)の大きさのバランスが、京都の棕櫚箒とも名古屋の棕櫚箒とも古くから異なっていたそうです。具体的には、京都など他地域でよく作られていた箒の型は、長柄箒の両端の玉が極端に大きく、逆にそれ以外の玉はとても小さく作られるのが一般的でした。
野上谷の棕櫚箒の型は他地域ほど玉の大小を極端に変えず緩やかな大小の変化をつけ、各玉の繊維量・厚みを微調整して作られます。このことからいま製作している棕櫚箒の型・プロポーションは、むかし京都から技術が伝わったままに継承しているのではなく、厳密には、野上谷独自の型が発展し、それを桑添勇雄さんがより洗練させたものと考えています。

かつて日本一の棕櫚産地だった野上谷和歌山では昭和に入り戦後になると、野上谷(現在の和歌山県紀美野町周辺から有田川流域)が全国一の棕櫚の産地だったことが大いに関係して、町役場のある動木周辺の集落では棕櫚産業(ロープ、たわし、マット、ほうき等)が盛んになりました。棕櫚箒作りに関しても、専業とする個人商店が20軒とも30軒ともいわれるくらい出来ていた時期があったそうです。

棕櫚箒作りの多くは小規模な家内工業で、安価な量産品から上質な箒まで各家庭で製作されました。
それらは地元の問屋と行商人によって主に西日本各地へ流通していました。
師匠が箒作りをはじめた30歳当時は、ほとんどの職人は50代以上になり、師匠は一番の若手だったそうです。

ごく小さな地域で多くの職人が腕を競い合い、分業式の作り方で安価な棕櫚箒を大量生産する店もあれば、かたや、誂えものの上質な箒を専門にする職人もいて、互いに反発し時に協力して働く中で工夫に工夫を重ね、より掃きやすく、より丈夫で、見た目に美しい箒を追求して、今に続く棕櫚箒の形や意匠ができあがりました。


6.番外編:鬼毛箒のここを見ると製造元が分かります

昔から棕櫚箒には製造元の分かるブランドロゴや銘が入っていないので、もし店頭などで棕櫚箒を見かけても、どこで作られたものか分からないと思います。
分業制で量産されている棕櫚箒は手間のかかる凝った意匠はしませんのでそれ以外の棕櫚箒の話になりますが、昔から老舗箒店や誂え物の上質な鬼毛箒を作る職人は、銘を刻む代わりに一目で誰が作ったか分かる固有の意匠・デザインを箒作りに取り入れてきました。棕櫚と持ち手の柄(え)の境界部分の意匠がそうです。
たとえば下の画像左が師匠の桑添勇雄商店の箒で、右が棕櫚箒製作舎の鬼毛箒の意匠です。この場合は師匠と弟子なので意匠がよく似ていますが、昔は銅線と糸を交互に巻く組み合わせで「何本ラインが入っていたらあの箒屋(もしくは誰それ)の作った箒だ」と分かったそうです。この意匠作りは手間がかかるので特に上質な箒にしか施されないものです。
職人の銘・鬼毛箒の柄付けの意匠




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